2007年01月21日

改めて悪徳宗教の罪深さを感じる

コメ欄はタイマンオンリーだ、とか言う奇特な人がいるのでTBしてみる。

信仰を持っている今は「神様の御心は何だろうか」ということをいつも中心に置きます。
上手くいかないときはお祈りしてから始めたり、聖書を読んだりもします。
御言葉と照らし合わせます。
いつも向かうのは「神様」なんですね。
自分の感情としてはこうしたいと思うけど、この人のためにはどうしてあげたら一番いいんだろうっていうことをお祈りしながら行動しています。

http://blog.livedoor.jp/m-45_90799/archives/50906915.html#commentsより

この心構え自体は悪くない。
むしろ素晴らしいと思う。
ただ、外の人間が見るとその「神様の御心」や「神様の御心に適う行動」がそのまま「教祖や組織」「教祖や組織の利益になる行動」 にすり替えられて刷り込まれてるようにしか見えない。

俺は極端な話、たとえオウムでも信仰する行為そのものには罪はないと思っている。
(信仰という行為自体が悪いと思っている人は少ないだろう(愚か、 意味がないと思っている人はいても)
だがその反面、外の者に迷惑をかけるようなモノは信仰などとは思わないし、外からの言葉を客観的に受け取れないモノを宗教とは思わない。
外からの言葉に意固地に反応した瞬間、信仰心だったものは信仰心でなくなる。
全てを受け入れた上での心の導きたるものこそが信仰であるのに、断絶・否定・攻撃するようではとてもそれとは言えない。
なるほど、「まだ信仰の浅い者が勝手にやっている」と言うかもしれない。
だがそれなら、信仰の深い者がそうしないように嗜め止めるべきだろう。
浅いままならまだましも、なくす行為はさせるべきではない。
また、信仰深い者からの聞き入れないような者に信仰心があるとはとても言えないだろう。

信仰は言葉に非ず、姿に在り。
どんなに言葉を弄そうとも、その姿を、表情を、眼を見せない者に人は真に感化されることはない。
心が弱っている状態の時に付け込まれたのなら、まだしも。
(辻説法も説法の内容と同じくらい、説法している姿を見せることが重要なのだろうし)
(聖書や経典は、それを(聞き・読み・写し・考えるという行為をふみながら)通して神や御子の姿(と心)を感じるためのものであり、 それが全てではない)


「宗教・信仰の自由」は他者に迷惑をかけないことを前提とした上での自由。
何がなにおいても「宗教・信仰の自由」が先に来るのなら、デーモニッシュなのでもOKになるからなぁ。



posted by 壬風蛙 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネット駄雑記>見聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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