2007年01月21日

白樽、美味し

最近はまっているコーヒーがある。
DyDoの無糖珈琲(ミルク入り)樽だ。
ミルク入りってのがミソで、甘めのコーヒーしか飲めなかった俺でもぐいぐいいける。
砂糖が入ってないから、当然胃にも優しい。
一日に何杯飲んでも大丈夫。

俺はホント無糖のコーヒーが苦手だったんだが、何かの気の迷いで飲んだら大当たりだった。
ミルクのまろやかさとコーヒーの香りが気持ちよく広がって、そのまますっと喉に流れていく感じ。

味に関しても自分が特殊な方だとは自覚しているが、これは他の人にもマジでお薦め、いやマジで。



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最近の柳の下の泥鰌はNPO法人らしい

俺が見続けている対象の一つにhyouenというのがいる。
彼が過去にやらかしたことの中で、一番被害が広かったのが地方アイドルバリッ娘というのがあった。

この時の上司でhyouenのおかげで、(その時は)大して追求される間もなく逃れることができたのが「F」や「F橋」と呼ばれている人物。
F氏はその後どうも愛媛を離れたらしく、次に彼がネットで話題に上ったのはMixi内の騒動でとなる。
フリーライターやライターを夢見る人らを狙った詐欺(まがい)で、所謂「旅コン」騒動だ。
この騒動の舞台となったコミュは違法性が濃く、規定違反でもあったため、さすがのMixi運営も腰を上げアカウントごと削除となった。
その騒動の本編(?)が一応の終末を見せ、F氏本人がまた姿をくらましたのが去年の秋ごろだったと思う。

そして、数ヵ月後。
エビラさんの所で彼の消息を知る。
…さらに犯罪性が高くなっている…
今度の相手は文京区(の一部商店街?)。
ご丁寧にも(一応)正式なNPO法人になって活動している。
今回のカードは「地域通貨」(一店(またはチェーン)内ではなく、エリア単位で通用する有料のクーポン券みたいなもの)。
詳しいことは『地域通貨「mon」の実態を追及する!』『とりあえず俺って何様?』(こちらの書き手は旅コン騒動の時も近しい人らが巻き込まれたそうだ)「文京区の地域通貨「mon」に要注意」であげられているが、乱暴に言えばイヌイヌ詐欺募金パークのようなNPOゴロだ(募金パークのほうはNGOモドキだが)。

そういうことをやらかしている(現在も進行中)事にも驚いたが、個人的に驚いたというか呆れた点が一つ。
「堂々とHPに名前を載せている」
バリッ娘の時も旅コンの時も実名がガンガン挙げられていたのはネットに噛り付いていなくても分かっていたと思うのだが…いやはやたいした肝で。
山師たるものこれくらいの度胸は必要、ということなのだろうか?

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改めて悪徳宗教の罪深さを感じる

コメ欄はタイマンオンリーだ、とか言う奇特な人がいるのでTBしてみる。

信仰を持っている今は「神様の御心は何だろうか」ということをいつも中心に置きます。
上手くいかないときはお祈りしてから始めたり、聖書を読んだりもします。
御言葉と照らし合わせます。
いつも向かうのは「神様」なんですね。
自分の感情としてはこうしたいと思うけど、この人のためにはどうしてあげたら一番いいんだろうっていうことをお祈りしながら行動しています。

http://blog.livedoor.jp/m-45_90799/archives/50906915.html#commentsより

この心構え自体は悪くない。
むしろ素晴らしいと思う。
ただ、外の人間が見るとその「神様の御心」や「神様の御心に適う行動」がそのまま「教祖や組織」「教祖や組織の利益になる行動」 にすり替えられて刷り込まれてるようにしか見えない。

俺は極端な話、たとえオウムでも信仰する行為そのものには罪はないと思っている。
(信仰という行為自体が悪いと思っている人は少ないだろう(愚か、 意味がないと思っている人はいても)
だがその反面、外の者に迷惑をかけるようなモノは信仰などとは思わないし、外からの言葉を客観的に受け取れないモノを宗教とは思わない。
外からの言葉に意固地に反応した瞬間、信仰心だったものは信仰心でなくなる。
全てを受け入れた上での心の導きたるものこそが信仰であるのに、断絶・否定・攻撃するようではとてもそれとは言えない。
なるほど、「まだ信仰の浅い者が勝手にやっている」と言うかもしれない。
だがそれなら、信仰の深い者がそうしないように嗜め止めるべきだろう。
浅いままならまだましも、なくす行為はさせるべきではない。
また、信仰深い者からの聞き入れないような者に信仰心があるとはとても言えないだろう。

信仰は言葉に非ず、姿に在り。
どんなに言葉を弄そうとも、その姿を、表情を、眼を見せない者に人は真に感化されることはない。
心が弱っている状態の時に付け込まれたのなら、まだしも。
(辻説法も説法の内容と同じくらい、説法している姿を見せることが重要なのだろうし)
(聖書や経典は、それを(聞き・読み・写し・考えるという行為をふみながら)通して神や御子の姿(と心)を感じるためのものであり、 それが全てではない)


「宗教・信仰の自由」は他者に迷惑をかけないことを前提とした上での自由。
何がなにおいても「宗教・信仰の自由」が先に来るのなら、デーモニッシュなのでもOKになるからなぁ。

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